休憩室の掲示板に、
正社員登用試験の案内が貼られていた。
募集期間。
応募条件。
試験日。
紙の前で立ち止まり、スマホで写真を撮っている人もいた。
俺も一度、
案内を最後まで読んだ。
期間工から正社員になれば、契約満了のたびに次の仕事を考えなくていい。
毎月の収入を心配しながら、求人サイトを開く回数も減るかもしれない。
期間工ループから抜けたいなら、正社員登用を目指す。
外から見れば、
それが一番まっすぐな道に見えた。
それでも俺は、
応募しなかった。
正社員にならなかったことを、いつか後悔する可能性はある。
ただ、あの時の自分が本当に怖かったのは、正社員になれないことではなかった。
この工場で働き続ける以外の道がなくなることだった。
結論:正社員にならないと後悔するとは限らない
期間工から正社員にならなかったからといって、必ず後悔するわけではない。
正社員登用が自分の望む働き方につながっているなら、挑戦する価値はある。反対に、工場で長く働く意思がなく、別の仕事や生き方を目指しているなら、登用を受けない選択もある。
問題は、正社員登用を目指さないことではなかった。
登用を受けず、
その代わりになる道も作らないことだった。
自分は正社員登用を受けなかった。
その理由には、工場の外に選択肢を作りたいという気持ちがあった。
一方で、試験に落ちることや、正社員として長く働く責任から逃げた部分もあった。
きれいな理由だけではない。
だから今でも、「受けていたらどうなっていたのだろう」と考えることはある。
それでも、登用を受けなかった選択そのものより、その後に何も準備しなかった時の方が、強く後悔すると思っている。
期間工から正社員になる魅力は大きかった
正社員が嫌だったわけではない。
安定した収入。
契約満了を気にせず働ける生活。
長く働くことで増えていく経験。
社会的な信用。
どれも、自分には魅力的に見えた。
期間工として働いていると、数か月ごとに契約の区切りが来る。
更新するのか。
満了するのか。
次はどこへ行くのか。
そのたびに、仕事と住む場所を考えなければならない。
正社員になれば、少なくとも「次の契約があるか」という不安からは離れられる。
同じ工場で長く働く意思がある人にとって、正社員登用は強い選択肢だと思う。
実際、同じ職場で登用試験に合格した人もいた。
仕事を覚えるだけでなく、周囲へ声をかけ、新しく入った人を手伝い、改善にも取り組んでいた。
合格したと聞いた時は、
やっぱりなと思った。
同時に、
少し羨ましかった。
自分の働き方を会社に認められた。
ここで必要とされた。
その証明のように見えた。
それでも正社員登用を目指さなかった5つの理由
1.この工場で長く働く未来を想像できなかった
正社員になった後の自分を考えた。
朝起きる。
工場へ行く。
作業着を着る。
ラインに立つ。
交替勤務を続ける。
数年後も。
十年後も。
その生活を続けている自分を、うまく想像できなかった。
工場の仕事が嫌いだったわけではない。
決められた作業を覚え、一日の生産を終える。接客業のように、常に知らない人へ対応する必要もない。
それでも、ここを自分の長期的な居場所にしたいとは思えなかった。
正社員登用は、期間工より安定するためだけの制度ではない。
この会社で長く働く意思を示す選択でもある。
自分には、
その覚悟がなかった。
2.期間工だから耐えられた部分があった
期間工の仕事を続けられた理由の一つは、終わりが見えていたことだった。
あと何時間。
あと何日。
次の給料日まで。
満了日まで、あと何か月。
夜勤がきつい日も、ラインを止めたくなるほど疲れた日も、満了日を一つの区切りにして働いていた。
期限があることは不安だった。
同時に、
救いでもあった。
正社員になれば、契約満了という終わりはなくなる。
辞める時は、自分で退職を決めなければならない。
会社へ伝える。
安定した収入を捨てる。
周囲へ理由を説明する。
期間工として満了するより、自分で区切りを作ることの方が怖く感じた。
この仕事を長く続けたいというより、
終わりがあるから続けられていた。
その状態で正社員になるのは違うと思った。
3.工場の外に選択肢を作りたかった
自分が欲しかったのは、この工場で働き続ける権利だけではなかった。
工場以外でも生きていける選択肢が欲しかった。
期間工の給料以外から収入を作る。
別の仕事にも応募できるようにする。
働いた時間だけでなく、未来にも残るものを作る。
そう考えて、フードデリバリーとブログを始めた。
配達は、走った分だけ報酬が入った。
工場以外でも、自分でお金を作れると分かった。
ただし、休めば収入も止まった。
ブログは最初、アクセス0だった。
それでも記事は残った。
やがて、初めて一円が発生した。
生活を変える金額ではない。
それでも、工場にいる間に、過去に書いた記事から収益が出た。
自分が作りたかったのは、
こういう小さな道だった。
正社員として工場の中で立場を作るより、工場の外に選択肢を増やすことへ時間を使いたかった。
4.登用試験に落ちるのが怖かった
認めたくなかった理由もある。
試験に落ちるのが怖かった。
応募しなければ、
不合格にはならない。
「最初から正社員を目指していない」と言っておけば、自分を守れる。
試験を受ける。
面接を受ける。
普段の仕事ぶりを評価される。
そして落ちる。
その結果を受け止める自信がなかった。
学歴。
職歴。
年齢。
普段の働き方。
自分には、評価される側へ立つ自信があまりなかった。
工場に縛られたくない。
ほかにやりたいことがある。
正社員だけが正解ではない。
どれも嘘ではない。
でも、その言葉の奥に、
挑戦して落ちるのが怖い自分もいた。
正社員登用を目指さなかったことを、自由な生き方を選んだように説明することはできる。
実際は、
逃げた部分もあった。
5.正社員になれば不安が全部消えると思えなかった
正社員になれば、雇用は今より安定する。
ただ、自分が抱えていた不安のすべてが消えるとは思えなかった。
夜勤がなくなるとは限らない。
ライン作業から離れられるとも限らない。
仕事の責任は増えるかもしれない。
人間関係の悩みも残る。
自分が不安だったのは、契約期間だけではなかった。
一つの会社に収入をすべて依存すること。
体を動かせなくなれば稼げないこと。
工場以外で何ができるか分からないこと。
正社員という肩書を得ても、この不安は自動的にはなくならないと思った。
だから俺は、社員登用を目指すより先に、工場の外でも生きられる準備をしたかった。
正社員にならなかったことを後悔しそうな場面
正社員登用を受けなかった選択が、いつでも正しかったと思えるわけではない。
今でも、後悔しそうになる場面はある。
契約満了後の仕事が決まらない時
期間工を辞めれば、毎月の給料は止まる。
寮を出る場合は、住む場所も変わる。
求人を見ても、自分に応募できる仕事が少ないと感じた時、正社員になっていればよかったと思う可能性はある。
正社員なら、少なくとも翌月の給料や勤務先を心配する必要は少なかった。
収入が途切れる不安を感じるたび、
安定を選ばなかったことが重く見える。
年齢が上がり、転職が怖くなった時
期間工に慣れるほど、別の仕事へ挑戦することが怖くなる。
工場の仕事は知っている。
夜勤も経験している。
寮生活にも慣れている。
一方で、工場以外の職歴は増えていない。
数年後、転職しようと思った時に、もっと早く正社員を目指していればよかったと考えるかもしれない。
正社員登用を受けないなら、
その時間を別の経験へ変える必要がある。
何も積み上げないまま年齢だけが上がれば、後悔しやすくなる。
登用された人が安定して働いている姿を見た時
同じ期間工だった人が正社員になり、長く働いている。
収入が安定し、生活の予定も立てられている。
そんな姿を見れば、羨ましいと思う。
自分も試験を受けていれば、同じ場所にいたかもしれない。
そう考えることはある。
ただし、他人が手に入れた安定と、自分が本当に欲しかった生活は同じとは限らない。
羨ましさだけで、自分の選択が間違いだったとは決められなかった。
期間工から正社員を目指した方がいい人
次のような人は、正社員登用を目指す意味が大きいと思う。
- 現在の会社や工場で長く働きたい
- 配属工程や交替勤務を続けられる
- 職場の人間関係に大きな問題がない
- 工場の仕事を覚え、さらに責任ある仕事にも挑戦したい
- 毎回の契約更新や転職活動から離れたい
- 収入と生活を長期的に安定させたい
- 登用試験へ向けて、普段の働き方から積み上げられる
特に、今の工場が自分に合っているなら、その環境を簡単に手放す必要はないと思う。
別の会社へ行けば、配属も人間関係も一から始まる。
現在の工程に慣れ、周囲からも信頼され、この先も働きたいと思えるなら、正社員登用は現実的な道になる。
挑戦して不合格だったとしても、受けた経験は残る。
本当は目指したいのに、落ちるのが怖いという理由だけで諦めるなら、後悔する可能性は高い。
正社員登用を目指さなくてもいい人
反対に、次のような状態なら、正社員登用を目指さない選択もある。
- この工場で長く働きたいと思えない
- 夜勤やライン作業で体調を崩している
- 別業種へ進みたい方向が決まっている
- 期間工へ来た目的をすでに達成している
- 次の仕事や住む場所の準備ができている
- 正社員になりたいのではなく、不安から逃れるためだけに応募しようとしている
- 登用を受けない代わりに、別の道を作る計画がある
「正社員になれる可能性があるのだから、受けないともったいない」
そう言われることもある。
確かに、機会を捨てることにはなる。
ただし、正社員になること自体が目的になり、その後に働き続けられなければ意味がない。
大切なのは、正社員という肩書を取れるかどうかではない。
その会社で働き続けたいかどうかだった。
登用を目指さないなら代わりに何をするのか
正社員登用を受けないなら、それで終わりにはできない。
会社が用意した安定を選ばない以上、自分で次の生活を作る必要がある。
自分が考えたのは、次の四つだった。
生活防衛資金を作る
期間工を辞めた後、すぐに次の仕事が決まるとは限らない。
寮を出れば、引っ越し費用や家賃も必要になる。
自分はまず、貯金100万円を一つの区切りにした。
必要な金額は人によって違う。
大切なのは、口座残高だけでなく、その金で何か月生活できるかを考えることだった。
契約中から次の求人を見る
満了してから求人を探すと、貯金が減る焦りが加わる。
だから、給料が入っている間に期間工以外の求人も見る。
応募できそうな仕事。
必要な資格。
勤務地。
給料。
住居。
見るだけでも、「工場以外では何もできない」という思い込みを少し崩せる。
工場以外の収入を作る
最初から副業だけで生活できる必要はない。
月1万円でも、会社の給料以外から収入を作る経験は残る。
自分は配達とブログを始めた。
どちらも生活を変えるほどの収入ではなかった。
それでも、期間工を辞めたら完全に収入がゼロになるという恐怖を、少しだけ小さくしてくれた。
期限を決める
「いつか別の仕事へ行く」では、たぶん動けない。
次の満了までに求人を何件見るのか。
貯金をいくら作るのか。
借金をどこまで減らすのか。
副業でいくら作るのか。
期限と数字を決めなければ、正社員登用を受けなかったことが、ただの先延ばしになる。
本当に目指さなかったのか
正直、
今でも分からない。
正社員登用を目指さなかったのか。
目指す勇気がなかったのか。
たぶん、
両方だった。
工場の外へ出たい気持ちはあった。
同時に、登用試験を受けて評価されることから逃げた部分もあった。
人は、自分の選択をきれいな理由だけで説明したくなる。
でも、実際の決断はもっと曖昧だった。
希望。
不安。
プライド。
恐怖。
いろいろなものが混ざっている。
だから、正社員登用を目指さなかったことが正しかったとは言えない。
ただ、
あの時の自分は選ばなかった。
それが事実だった。
掲示板の前で出した答え
数日後。
また休憩室の掲示板を通った。
正社員登用試験の案内は、
まだ貼られていた。
応募期限が近づいていた。
一度だけ立ち止まった。
応募条件。
試験日。
やろうと思えば、
まだ間に合った。
それでも、写真は撮らなかった。
応募用紙も受け取らなかった。
そのまま自販機へ向かい、
缶コーヒーを買った。
逃げたのかもしれない。
この選択を、いつか後悔するかもしれない。
それでも、自分は工場の外に小さな道を作る方へ時間を使うと決めた。
正社員登用を目指さないなら、
何もしなくていいわけではない。
むしろ逆だった。
会社が用意してくれた安定を選ばないなら、自分で次の道を作らなければならない。
貯金を増やす。
借金を減らす。
ブログを書く。
配達収入を記録する。
期間工以外の求人を見る。
正社員にならなかったことを後悔するかどうかは、登用を受けなかった瞬間には決まらない。
その後の時間を、
何に使ったかで決まるのだと思う。
深夜2時の帰り道
仕事を終え、
工場の門を出た。
正社員になった人も、
期間工のまま働く人も、
同じ門から帰っていく。
制服を脱げば、
外から見分けることはできない。
それぞれ違う事情を抱え、
違う道へ帰る。
自分は正社員登用を目指さなかった。
工場以外の選択肢を作りたかったから。
試験に落ちるのが怖かったから。
長く働く覚悟がなかったから。
どれも本当だった。
正解だったかは、
まだ分からない。
ただ、選ばなかった以上、
別の道を形にしなければならない。
そうしなければ、正社員にもならず、期間工ループからも抜けられず、時間だけが過ぎていく。
その夜、
寮へ戻ってパソコンを開いた。
タイトルを入力する。
「期間工から正社員にならないと後悔する?」
自分の選択を、
きれいに見せずに残しておこうと思った。