休憩室の掲示板に、
正社員登用試験の案内が貼られていた。
募集期間。
応募条件。
試験日。
紙の前で立ち止まっている人がいた。
スマホで写真を撮る人もいた。
俺も一度、
その案内を読んだ。
正社員になれば、
契約満了を気にしなくていい。
毎回、次の仕事を探さなくていい。
寮を出た後のことも、
今より計画しやすくなる。
期間工から抜け出したいなら、
正社員を目指す。
それが一番まっすぐな道に見えた。
でも俺は、
応募しなかった。
正社員になりたくなかったわけではない
正社員が嫌だったわけではない。
安定した収入。
賞与。
昇給。
社会的な信用。
契約更新を気にせず働けること。
どれも魅力的だった。
賃貸を借りる時。
ローンを組む時。
家族へ仕事を説明する時。
「正社員です」
と言えることには、
自分が思っている以上の力がある。
期間工として働いていると、
正社員になった人の話も聞く。
登用試験に合格した。
制服が変わった。
任される仕事が増えた。
周りから祝福されていた。
素直にすごいと思った。
それでも、
自分も同じ道を進みたいとは思えなかった。
安定が欲しかったはずなのに
期間工へ戻った理由の一つは、
生活を安定させるためだった。
毎月給料が入る。
寮がある。
借金を返せる。
貯金を作れる。
不安定な生活から抜け出したかった。
それなら、
正社員登用を目指すのが自然だった。
期間工より雇用が安定する。
収入も長い目で見れば計画しやすい。
頭では分かっていた。
でも、
正社員になった後の自分を想像すると、
安心より先に息苦しさを感じた。
朝起きる。
工場へ行く。
ラインに立つ。
交替勤務を続ける。
数年後も。
十年後も。
同じ工場にいる自分が、
あまり想像できなかった。
期間工だから耐えられた部分
工場の仕事が嫌いだったわけではない。
同じ作業を覚える。
体が動きを覚える。
一日の生産を終える。
仕事として分かりやすい。
人間関係も、
接客業ほど複雑ではなかった。
それでも、
夜勤やライン作業が楽だったわけではない。
眠れない朝。
止まらない部品。
痛くなる腰や手首。
きつい日には、
満了日を考えていた。
あと何か月。
そこまで働けば、
まとまった金が入る。
期限があるから、
耐えられた部分があった。
終わりが見える。
それは期間工の不安でもあり、
救いでもあった。
正社員になれば、
その終わりは自分で決めるまで来ない。
それが、
自分には少し怖かった。
仕事を選んだというより、逃げ場を残していた
今振り返ると、
正社員登用を目指さなかった理由の一つは、
逃げ場を残したかったからだと思う。
期間工なら、
契約を満了して出られる。
辞める時にも、
「契約満了」という理由がある。
自分で退職を決めるより、
少しだけ出やすい。
正社員になれば、
辞める時は自分で決断しなければならない。
安定を捨てる。
会社へ退職を伝える。
周囲に理由を説明する。
その覚悟が、
自分にはなかった。
正社員を目指さなかったのは、
自由を選んだからではない。
責任を背負うのが怖かった部分もある。
そこは、
きれいに言い換えたくない。
登用試験に落ちるのも怖かった
もう一つ、
認めたくなかった理由がある。
落ちるのが怖かった。
応募しなければ、
不合格にはならない。
「本気で目指していない」
と言っておけば、
自分を守れる。
試験を受ける。
面接を受ける。
仕事ぶりを評価される。
そして落ちる。
その結果を受け止める自信がなかった。
学歴。
職歴。
年齢。
普段の仕事ぶり。
自信を持てる材料は少なかった。
だから、
最初から目指さない理由を探していたのかもしれない。
工場に縛られたくない。
他にやりたいことがある。
正社員だけが正解ではない。
どれも嘘ではない。
でも、
その言葉の奥には、
挑戦して落ちるのが怖い自分もいた。
社員になった人を見て思ったこと
同じ職場で、
正社員登用に合格した人がいた。
真面目だった。
仕事も早かった。
周りへの気配りもできた。
期間工だからといって、
言われた作業だけをするわけではない。
分からないことを聞く。
改善を考える。
新人を手伝う。
普段の積み重ねが違っていた。
合格したと聞いた時、
やっぱりなと思った。
同時に、
少しだけ羨ましかった。
自分の働き方を認められた。
ここで必要とされた。
その証明のように見えた。
でも、
自分が欲しいものとは少し違うとも思った。
俺が欲しかったのは、
この工場で長く働く権利ではなかった。
工場以外でも生きられる選択肢だった。
正社員になれば全部解決すると思えなかった
正社員になれば、
雇用は安定する。
でも、
自分の不安が全部消えるわけではない。
夜勤がなくなるとは限らない。
ライン作業から離れられるとも限らない。
人間関係の悩みもある。
異動もある。
仕事の責任も増える。
もちろん、
期間工より良くなる部分は多いと思う。
ただ、
正社員という肩書だけで、
自分の人生が自動的に安定するとは思えなかった。
自分が不安だったのは、
契約期間だけではない。
一つの会社に収入を全部依存すること。
体が動かなければ働けないこと。
工場以外に何ができるのか分からないこと。
そこは、
正社員になっても残る。
だから俺は、
社員登用より先に、
工場の外で小さな収入を作りたかった。
配達とブログ
フードデリバリーを始めた。
走れば報酬が入る。
工場以外でも、
自分で一円を作れることが分かった。
でも、
休めば収入も止まった。
次にブログを始めた。
最初はアクセス0。
やがて、
初めて一円が発生した。
生活を変える金額ではない。
それでも、
過去に書いた記事が、
自分の代わりに小さく働いた。
その一円を見た時、
自分が欲しい方向が少し分かった。
工場で出世することより、
工場の外に小さな道を増やしたい。
すぐには生活できなくてもいい。
配達。
ブログ。
投資。
別の仕事。
一つの場所に全部を預けず、
少しずつ選択肢を作りたかった。
正社員を否定しているわけではない
正社員登用を目指す人は、
すごいと思う。
長く働く覚悟がある。
試験へ向けて準備する。
日々の仕事でも評価を積み上げる。
安定した収入を得て、
家族を支える人もいる。
期間工から正社員になることは、
十分に立派な目標だ。
合う人には、
現実的で強い道だと思う。
ただ、
自分の目標とは違った。
大切なのは、
正社員が正解か、
期間工が正解かではない。
その働き方が、
自分の行きたい場所につながっているかどうかだと思う。
本当に目指さなかったのか
正直、
今でも分からない。
目指さなかったのか。
目指す勇気がなかったのか。
たぶん、
両方だった。
工場の外へ出たい気持ちはあった。
同時に、
試験へ挑戦して評価されることから逃げた部分もあった。
人は、
自分の選択をきれいな理由だけで説明したくなる。
でも、
実際の決断はもっと曖昧だ。
希望。
不安。
プライド。
恐怖。
いろいろなものが混ざっている。
だから、
正社員登用を目指さなかったことが、
正しかったとは言えない。
ただ、
あの時の自分は選ばなかった。
それが事実だった。
掲示板の前
数日後。
また休憩室の掲示板を通った。
正社員登用試験の案内は、
まだ貼られていた。
応募期限が近づいていた。
一度だけ立ち止まった。
紙を見る。
応募条件。
試験日。
やろうと思えば、
まだ間に合った。
でも、
写真は撮らなかった。
応募用紙も受け取らなかった。
そのまま自販機へ向かった。
缶コーヒーを買う。
逃げたのかもしれない。
それでも、
自分は別の道を作る方に時間を使うと決めた。
正社員ではない次の道
正社員登用を目指さないなら、
何もしなくていいわけではない。
むしろ逆だった。
会社が用意してくれた安定を選ばないなら、
自分で次の道を作らなければならない。
貯金を増やす。
借金を減らす。
ブログを書く。
配達収入を記録する。
転職先を調べる。
工場の外で使えるものを身につける。
正社員登用を受けないことを、
ただの先延ばしにしてはいけない。
その責任は、
自分で引き受けるしかなかった。
深夜2時の帰り道
仕事を終え、
工場の門を出る。
正社員になった人も、
期間工のまま働く人も、
同じ門から出ていく。
夜の道では、
制服を脱げば見分けはつかない。
それぞれ、
違う事情を抱えて帰る。
自分は正社員登用を目指さなかった。
安定が嫌だったからではない。
工場以外の選択肢を作りたかったから。
そして、
挑戦して落ちるのが怖かったから。
どちらも本当だ。
正解だったかは、
まだ分からない。
ただ、
選ばなかった以上、
別の道を形にしなければいけない。
そうしなければ、
正社員にもならず、
期間工ループからも抜けられず、
ただ時間だけが過ぎていく。
その夜、
寮へ戻ってパソコンを開いた。
記事のタイトルを入力する。
「正社員登用を目指さなかった理由」
自分の選択を、
ごまかさずに残しておこうと思った。
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