最後の夜勤が終わった翌日。
もう一度、工場へ向かった。
仕事をするためではない。
貸与品を返し、
ロッカーの中を空にするためだった。
作業着ではなく、
普段着で工場の門を通った。
それだけで、
自分がもうここの人間ではないような気がした。
昨日までは毎日通っていた場所なのに、
今日は少し入りづらかった。
普段着で入る工場
入館カードをかざす。
機械が短い音を出す。
いつもと同じだった。
けれど、周りにいる人たちは作業着を着ている。
自分だけが普段着だった。
これから仕事へ向かう人。
休憩から戻る人。
台車を押している人。
みんな、いつもの一日を続けている。
自分だけが、
その流れから外れていた。
工場を辞めれば、もっと解放感があると思っていた。
夜勤へ行かなくていい。
ラインに立たなくていい。
残業時間を気にしなくていい。
確かに、もう出勤する必要はない。
それなのに、
胸の奥が少し落ち着かなかった。
ロッカーまでの道
更衣室まで歩く。
何度通ったか分からない道だった。
出勤前は足早に通った。
残業後は疲れた体で歩いた。
夜勤明けには、
眠気でぼんやりしながら歩いた。
壁に貼られた安全標語。
床の色。
曲がり角に置かれた消火器。
どれも見慣れていた。
それでも、今日が最後だと思うと、一つずつ目に入った。
入社したばかりの頃は、
ロッカーへたどり着くだけでも周りを見ながら歩いていた。
どこで靴を履き替えるのか。
どの入口を使うのか。
誰に挨拶すればいいのか。
今では考えなくても歩ける。
慣れるまでには時間がかかった。
離れるのは、
一日だった。
扉を開けた
ロッカーの前に立つ。
鍵を差し込む。
回す。
扉を開ける。
中には、まだいくつか荷物が残っていた。
予備の手袋。
使いかけのマスク。
汗拭き用のタオル。
小さなメモ帳。
ロッカーの奥には、
いつ買ったか分からない飴が一つ残っていた。
仕事中に疲れた時、
休憩で食べようと思って入れたものだった。
結局、食べなかった。
一つずつ取り出し、
床に置いたバッグへ入れる。
持って帰るもの。
捨てるもの。
会社へ返すもの。
分ける作業はすぐに終わった。
何か月も使ったロッカーなのに、
中身は大した量ではなかった。
自分がここにいた証拠は、
バッグ一つに収まった。
貸与品を返した
作業着。
帽子。
安全靴。
社員証。
会社から借りていたものをまとめた。
作業着を手に取る。
何度も洗ったはずなのに、
工場の匂いが残っている気がした。
油。
金属。
汗。
洗剤。
毎日着ていた時には気にならなかった。
もう着ないと思うと、
その匂いまで記憶に残った。
安全靴の底には、
細かい汚れが入り込んでいた。
最初は硬くて歩きにくかった靴も、
いつの間にか足になじんでいた。
返却場所で担当者に渡す。
名前を確認される。
返却品に不足がないか見てもらう。
「これで大丈夫です」
と言われた。
それだけだった。
会社から借りていたものを返すと、
自分と工場をつないでいたものが一つずつなくなっていった。
空になったロッカー
ロッカーへ戻る。
もう一度、中を確認した。
何も残っていない。
棚の上。
奥の隅。
扉の内側。
忘れ物はなかった。
名前を書いた小さな札を外す。
自分の名前が消える。
扉を閉じる。
鍵を回す。
それで終わった。
明日になれば、
このロッカーは空いている。
しばらくすれば、
新しく入った誰かが使うかもしれない。
その人も最初は緊張する。
作業着への着替え方も、
工場の歩き方も分からない。
時計ばかり見る日が続くかもしれない。
やがて仕事に慣れ、
ロッカーの中に手袋や飲み物を置くようになる。
自分がいた場所は、
簡単に次の人へ渡っていく。
工場では、
それが普通だった。
同期のロッカーを思い出した
少し離れた場所に、
以前、同期が使っていたロッカーがあった。
同じ日に入社した人だった。
最初の頃は、
仕事がきついという話を何度もした。
「あと何か月だな」
「満了金まで持つかな」
そんなことを話していた。
ある日、その人は来なくなった。
ロッカーの荷物もなくなった。
理由は詳しく知らない。
名前の札だけが外され、
しばらく空いたままになっていた。
その空のロッカーを見た時、
人はこんなに簡単にいなくなるのかと思った。
今度は、
自分のロッカーが空になった。
途中で辞めたわけではない。
満了まで働いた。
最後の夜勤も終えた。
それでも、
外から見れば同じだった。
荷物が消え、
名前が外され、
次の日から来なくなる。
工場の中では、
自分が辞めた理由や迷った時間までは残らない。
自分がいた時間は消えるのか
ラインで何台作業したのか。
何回、工具を握ったのか。
何度、夜勤明けの朝日を見たのか。
正確な数は分からない。
工場の記録には、
生産台数や勤務時間は残っているかもしれない。
でも、自分がその時何を考えていたかは残らない。
初めて作業へ入った日の緊張。
同期が辞めた朝の不安。
給料日前に残高を確認した夜。
契約更新の紙を前に迷った時間。
そういうものは、
何もしなければ消えていく。
だからブログを書き始めたのだと思う。
会社から見れば、
自分は大勢いる期間工の一人だった。
でも自分にとっては、
ここで過ごした時間が生活を立て直す途中にあった。
借金を返した。
100万円を貯めた。
配達を始めた。
ブログを書き始めた。
工場の中に形として残るものはない。
それでも、
自分の中には残っていた。
最後の挨拶
更衣室を出る前、
同じ班だった人とすれ違った。
「今日、片づけ?」
と聞かれた。
「はい。これで最後です」
と答えた。
「お疲れさま」
短い言葉だった。
自分も、
「お世話になりました」
と返した。
長く話すことはなかった。
連絡先を交換したわけでもない。
次に会う予定もない。
工場では、毎日顔を合わせていても、辞めれば会わなくなる人が多い。
仲が悪かったわけではない。
特別に親しかったわけでもない。
同じ時間に同じ場所で働いていた。
それだけの関係だった。
でも、その「それだけ」に助けられた日もあった。
きつい夜勤の休憩で、
誰かが同じように疲れているのを見るだけで少し安心した。
自分だけがつらいわけではないと思えた。
「お疲れさま」
最後も、
それで十分だった。
工場から持ち帰ったもの
バッグの中身を確認した。
私物のタオル。
メモ帳。
手袋。
飴。
持ち帰ったものは少なかった。
でも、工場から持ち帰ったものは、物だけではなかった。
夜勤を経験したこと。
寮で暮らしたこと。
同じ作業を続けたこと。
契約満了まで働いたこと。
体力がないと思っていた自分でも、何か月も続けられたこと。
一方で、
無理をすればどこかで限界が来ることも分かった。
期間工は、自分にとって成功でも失敗でもなかった。
生活を立て直すために必要だった時間だった。
その時間をどう次につなげるかは、
工場を出てから決まる。
出口でカードを返した
工場の出口へ向かう。
入館カードも返却することになっていた。
毎日かざしていたカードだった。
忘れれば工場へ入れない。
なくさないように、
いつも同じ場所へ入れていた。
担当者へ渡す。
名前を確認される。
カードが自分の手から離れる。
これでもう、
一人では工場へ入れない。
昨日までは普通に通れた門が、
今日からは関係者以外立入禁止の場所になる。
会社に所属している間だけ、
自分は中へ入ることを許されていた。
辞めれば、
ただの外部の人間になる。
その変化は、
思っていたよりあっさりしていた。
工場の外へ出た
出口を通る。
外の空気を吸う。
仕事を終えた時とは違った。
もう、次の出勤はない。
勤務表を確認する必要もない。
目覚ましを交替勤務に合わせなくていい。
明日の作業を考えなくていい。
自由になった。
それなのに、
足元が少し不安定に感じた。
工場へ行けば、
その日にやることが決まっていた。
ラインに立てば、
次の製品が流れてきた。
給料日になれば、
決められた金額が振り込まれた。
これからは、
自分で次を決めなければならない。
自由になったというより、
決められた道がなくなった。
その方が近かった。
寮へ戻る道
バッグを持って寮へ戻る。
行きよりも少し重かった。
荷物が増えたからだけではない。
工場との手続きが全部終わった。
あとは寮を片づけ、
鍵を返すだけだった。
仕事を辞めても、
寮に戻ればまだ自分の部屋がある。
ベッド。
机。
カーテン。
配達バッグ。
パソコン。
そこには、いつもの生活が残っている。
でも、その部屋にも退去日がある。
ロッカーを空にしたことで、
次は寮を出る番だと分かった。
満了は一日で終わるものではなかった。
最後の勤務。
貸与品の返却。
ロッカーの片づけ。
退寮の準備。
一つずつ、
今の生活が終わっていく。
深夜2時の帰り道
その夜、
寮の部屋でバッグを開いた。
持ち帰った荷物を床へ並べる。
タオル。
メモ帳。
手袋。
飴。
ロッカーの中にあった時は、
仕事の一部に見えた。
部屋へ持ち帰ると、
ただの使い古した物だった。
捨てようか迷った。
結局、メモ帳だけ残した。
中には、作業手順や注意点が書かれていた。
もう使うことはない。
それでも、
すぐには捨てられなかった。
ロッカーは空になった。
自分の名前も外された。
明日から、工場には自分の場所がない。
少し寂しかった。
でも、
空にしなければ次へは進めない。
工場に残してきたものより、
これから持っていくものを考える。
貯金。
経験。
配達。
ブログ。
まだ小さくても、
次につながるものはあった。
床に置いた段ボールを見る。
今度は、
寮の部屋を空にしなければならない。
次に返すのは、
この部屋の鍵だった。