退寮日の朝。

部屋の中央に、

ボストンバッグと段ボール箱が置かれていた。

昨日まで使っていた布団はない。

机の上にも、

もう何も残っていない。

カーテンを開ける。

朝の光が入ると、

部屋がいつもより広く見えた。

初めてこの部屋へ入った日も、

荷物は少なかった。

あの時は、

これからどんな生活が始まるのか分からなかった。

今日は違う。

これからどこへ行くのかが、

まだはっきり決まっていなかった。


何か月も暮らした部屋は一日で空になった

退寮の準備は、数日前から始めていた。

持っていく物。

捨てる物。

宅配便で送る物。

一つずつ分けた。

服。

日用品。

調理器具。

仕事で使っていた物。

配達バッグ。

パソコン。

寮へ入った時は、ボストンバッグ一つだった。

何か月も生活しているうちに、物は少しずつ増えていた。必要だと思って買った物もあれば、結局ほとんど使わなかった物もある。

最後まで残ったのは、すぐに使う物だけだった。

財布。

スマホ。

充電器。

着替え。

書類。

パソコン。

荷物を減らしていくと、生活が一つずつ消えていくように見えた。

冷蔵庫の中を空にする。

ごみをまとめる。

床を掃く。

机を拭く。

やることは単純だった。

それでも、

部屋が空になるほど落ち着かなくなった。

壁に残った跡

ベッドを動かした場所。

配達バッグを置いていた壁際。

パソコンを開いていた机。

何もなくなると、壁や床に小さな跡が残っていた。

自分が付けた傷なのか、前からあったものなのか分からない。

入寮した日には気づかなかった。

この部屋には、自分より前にも誰かが住んでいた。

その人も工場へ通い、

夜勤をして、

給料日を待ち、

いつか鍵を返して出ていったのだと思う。

そして自分が入った。

今日、自分も出ていく。

次はまた、

別の誰かがこの部屋を使う。

期間工の寮は、長く住み続ける家ではなかった。

働く期間だけ借りる、

一時的な生活の場所だった。

分かっていた。

それでも、

自分の部屋ではなくなると思うと少し寂しかった。

この部屋で考えていたこと

寮の部屋は広くなかった。

仕事が終われば、食事をして、シャワーを浴び、眠る。

最初はそれだけの場所だった。

でも、生活が続くうちに、この部屋でいろいろなことを考えるようになった。

給料日前。

銀行アプリを開き、

残高3,842円を見た。

このままでは何も変わらないと思った。

給料が入れば、先に貯金を分けた。

借金を返し、

残った金で次の給料日まで生活した。

口座残高が100万円を超えた夜も、この部屋にいた。

もっと安心すると思っていた。

実際には、

仕事を辞めたら何か月持つのかを考えていた。

配達バッグが届いた日。

想像していたより大きなバッグを、狭い部屋で広げた。

初めて配達した後は、スマホに表示された報酬を何度も見た。

ブログを始めたのも、この部屋だった。

アクセスはゼロ。

収益もゼロ。

それでも、工場で考えたことを一行ずつ書いた。

やがて、

初めて一円が発生した。

何もない部屋だと思っていた。

振り返ると、

生活を立て直すために始めたことの多くは、この部屋から始まっていた。


最後の確認

管理する人へ鍵を返す前に、

部屋をもう一度確認した。

押し入れ。

机の下。

窓の周り。

冷蔵庫の中。

忘れ物がないかを見る。

窓を閉める。

エアコンを止める。

照明を消す。

これまでは、出勤する時にも部屋を出ていた。

その時は、

仕事が終われば戻ってくる場所だった。

今日は違う。

一度ドアを閉めれば、

もう自分の鍵では開けられない。

荷物を廊下へ出す。

部屋の中に立つ。

何もない。

生活していた時は狭く感じた部屋が、

急に広く見えた。

最後に見た部屋は、

入寮した日の部屋に少し似ていた。

ドアを閉めた

照明を消す。

部屋が暗くなる。

廊下へ出る。

ドアを閉める。

カチッ。

小さな音だった。

鍵を差し、

回す。

施錠を確認する。

何度も繰り返した動作だった。

夜勤へ行く時。

買い物へ行く時。

配達へ出る時。

いつも同じように鍵をかけた。

でも、

今日が最後だった。

ドアの前に少し立っていた。

忘れ物がある気がした。

鍵を開けて、もう一度確認したい気持ちもあった。

実際には、何も忘れていない。

部屋の中に残してきたのは、

物ではなかった。

廊下を歩く

荷物を持ち、

長い廊下を歩いた。

共同風呂へ向かう時に通った。

洗濯物を持って歩いた。

夜勤明け、眠気の中で歩いた。

隣の部屋から音が聞こえた日もあった。

昼間に眠れず、廊下を歩く足音に腹を立てたこともある。

寮生活が快適だったとは言えない。

共同設備は面倒だった。

建物も新しくなかった。

生活音に悩むこともあった。

休日に一日中誰とも話さず、孤独を感じたこともある。

それでも、

この廊下を歩くのは今日で最後だった。

誰かとすれ違った。

顔を見たことはある。

名前は知らない。

軽く頭を下げる。

相手も頭を下げた。

それだけだった。

同じ寮で暮らしていても、

最後まで名前を知らない人は多かった。

鍵を返す場所

管理する人がいる場所まで荷物を運んだ。

退寮の確認を受ける。

部屋番号。

名前。

返却する物。

書類を見ながら、一つずつ確認された。

「忘れ物はありませんか」

「大丈夫です」

そう答えた。

手の中に、

部屋の鍵があった。

何度もポケットへ入れた鍵だった。

仕事へ行く時も。

配達へ行く時も。

コンビニへ行く時も。

なくさないように何度も確認した。

その鍵を、

管理する人へ渡した。

「お疲れさまでした」

と言われた。

「ありがとうございました」

と返した。

それで終わった。

何か特別な手続きがあるわけではない。

感謝状を渡されるわけでもない。

鍵が自分の手から離れる。

ただ、それだけだった。

でも、

仕事を辞めた時よりも強く、期間工生活が終わったと感じた。

仕事と家を同時に失う感覚

期間工を満了すると、

仕事だけが終わるわけではない。

寮に住んでいれば、住む場所も同時に変わる。

一般の退職なら、仕事を辞めても自宅へ帰ることができる。

期間工では、会社を辞めた後、自宅まで返すことになる場合がある。

昨日までは工場があった。

帰る寮もあった。

今日は、

どちらにも自分の場所がない。

自由になった。

同時に、

所属する場所がなくなった。

荷物を持って立っていると、その感覚が急に現実になった。

次の勤務先が決まっているわけではない。

ブログで生活できるわけでもない。

配達はできる。

でも、走らなければ収入はない。

貯金はある。

ただし、使えば減る。

満了前に考えていた不安が、

一つずつ現実になっていた。

100万円は時間を買うための金だった

銀行口座には、

以前より多くの金があった。

借金も減っていた。

給料日前に残高3,842円を見ていた頃とは違う。

あの頃なら、仕事も住む場所もなくなることに耐えられなかったと思う。

すぐに次の求人へ応募し、

条件を比べる余裕もなく働く場所を決めていたかもしれない。

今は、少しだけ時間がある。

すぐに生活できなくなるわけではない。

その余裕を作るために、

夜勤をした。

残業をした。

コンビニへ行く回数を減らした。

満了金を残した。

100万円は、人生を変える金ではなかった。

それでも、

次を焦って決めなくていい時間を買う金にはなった。

鍵を返した朝、

その意味がはっきり分かった。


寮の外へ出た

建物の外へ出る。

荷物を地面へ置き、

一度だけ寮を見上げた。

何か月も見てきた建物だった。

仕事へ向かう時は、

振り返ることなどなかった。

疲れて帰ってきた時は、

早く部屋へ入りたいとしか思っていなかった。

今日は、

もう中へ戻れない。

窓が並んでいる。

どの部屋が自分の部屋だったか、

外からでも分かった。

カーテンは開いている。

中には何もない。

次に来る人のための部屋へ戻っていた。

寮を出れば、もっとすっきりすると思っていた。

実際には、

うれしさと不安が半分ずつだった。

夜勤へ行かなくていい。

生活音を気にしなくていい。

共同風呂も使わなくていい。

その代わり、

家賃のかからない部屋もなくなった。

荷物を持って歩き始めた

ボストンバッグを肩にかける。

段ボール箱を持ち上げる。

思っていたより重い。

寮へ入った時より、

荷物が増えていた。

金も増えた。

経験も増えた。

不安まで増えた気がした。

それでも、

入寮した時とまったく同じではない。

工場で働けることは分かった。

夜勤を続けられることも分かった。

自分がどんな生活で疲れるのか。

何に金を使いやすいのか。

一人でいる時に何を考えるのか。

少しだけ、自分のことが分かるようになった。

配達も始めた。

ブログも残っている。

まだ小さい。

生活を支えられるほどではない。

それでも、

次へ持っていけるものはあった。

寮へ戻らない朝

いつもの道を歩く。

工場から寮へ帰る道。

買い物から寮へ戻る道。

配達を終えて、

深夜に帰った道。

今日は、

寮から離れる方向へ歩いている。

振り返れば、

建物はまだ見える。

少し進むと、

屋根だけになった。

さらに進むと、

見えなくなった。

その瞬間、

本当に終わったと思った。

最後の夜勤が終わった。

ロッカーを空にした。

寮の鍵も返した。

期間工としての生活は、

これですべて終わった。

それでも、

次の生活はまだ始まっていない。

終わった場所と、

始まっていない場所の間にいた。

深夜2時ではなく、朝の帰り道

空は明るかった。

深夜2時の帰り道ではない。

仕事を終えた朝でもない。

住んでいた場所を離れる朝だった。

行き先がないわけではない。

今日泊まる場所はある。

当面の生活費もある。

それでも、

毎日帰る場所は一度なくなった。

怖くなかったと言えば嘘になる。

この選択が正しかったのか。

また期間工に戻ることになるのか。

ブログを続けられるのか。

配達だけでどこまでつなげるのか。

何も分からない。

ただ、

鍵はもう返した。

戻ろうと思っても、

あの部屋へは戻れない。

少し前まで、そのことが怖かった。

今は、

戻れないから前へ進むしかないと思った。

寮の鍵を返した朝。

期間工を辞めたというより、

一つの生活を会社へ返した。

仕事。

ロッカー。

作業着。

部屋。

全部なくなった。

最後に残ったのは、

自分と荷物だけだった。

それでも、

何も持っていないわけではない。

貯金がある。

経験がある。

書いた記事がある。

次を考えるための時間がある。

荷物を持ち直し、

前を向いた。

満了した翌日。

予定は、

まだ何もなかった。