口座残高が100万円を超えた日の夜。
俺は、フードデリバリーの登録画面を開いていた。
名前。
住所。
電話番号。
本人確認書類。
振込先の口座。
入力するだけなら難しくない。
期間工に応募した時と同じだった。
それでも、最後のボタンを押す前に少し迷った。
工場だけでも疲れている。
夜勤もある。
残業もある。
そのうえ、仕事が終わってから配達をする。
本当に続けられるのか。
そこまでして金が欲しいのか。
答えは、少し違った。
金は欲しかった。
でも、それだけではなかった。
期間工以外でも金を稼げると、自分に証明したかった。
100万円が減っていくのが怖かった
100万円を貯めるまでは、
残高を増やすことだけを考えていた。
給料日に先取りで貯金する。
残業代を残す。
コンビニへ行く回数を減らす。
少しずつ数字が増えていった。
でも100万円を超えた瞬間から、
今度は減ることが怖くなった。
期間工を辞めれば、給料は止まる。
家賃。
食費。
税金。
保険。
生活しているだけで、
貯金は少しずつ減っていく。
100万円は安心をくれた。
同時に、
この金を失いたくないという不安も連れてきた。
貯金だけでは足りない。
給料以外から入る金が必要だ。
そう考えるようになった。
自分にできる副業は少なかった
副業について調べた。
動画編集。
プログラミング。
せどり。
ブログ。
投資。
どれも簡単ではなかった。
動画編集はパソコンが必要だった。
プログラミングは何から始めればいいのか分からない。
せどりは仕入れる金と商品を置く場所がいる。
ブログは、収益が出るまで時間がかかる。
投資は、副業というより持っている金を運用するものだった。
今すぐ始められて、
働いた分だけ金になるもの。
それがフードデリバリーだった。
スマホがある。
自転車もある。
特別な資格はいらない。
注文を受ける。
店で商品を受け取る。
届ける。
仕事の仕組みは分かりやすかった。
工場の仕事が終わった後でも、
一時間だけならできるかもしれない。
まずは休日だけ。
月に一万円でも稼げればいい。
そう考えて登録した。
配達バッグが届いた日
大きな黒いバッグが届いた。
段ボールから出して、
寮の小さな部屋で広げた。
思っていたより大きかった。
ベッドの横へ置くと、
部屋がさらに狭くなった。
まだ一件も配達していないのに、
少しだけ仕事を始めた気になった。
バッグの中には、
特別なものは入っていない。
仕切りを入れる。
タオルを敷く。
商品が動かないように準備する。
動画やブログを見ながら、
最低限必要そうなものをそろえた。
モバイルバッテリー。
スマホホルダー。
雨具。
ライト。
細かい出費が増えていく。
金を稼ぐために始めたのに、
始める前から金が減っていった。
少し不安になった。
それでも、
もう登録は終わっている。
バッグも届いた。
あとはオンラインにするだけだった。
初めてアプリをオンラインにした
最初の配達は、休日にすると決めていた。
昼過ぎ。
天気は晴れ。
自転車に配達バッグを固定して、
駅の近くまで走った。
アプリを開く。
「オンライン」
ボタンを押す。
すぐに注文が入ると思っていた。
でも鳴らない。
五分。
十分。
十五分。
何も起きなかった。
駅前をゆっくり走る。
飲食店が多い通りへ移動する。
それでも鳴らない。
もしかして設定を間違えたのか。
この地域では注文がないのか。
何度も画面を確認した。
二十分ほど経った頃、
突然スマホが音を鳴らした。
画面に店の名前と金額が表示される。
心臓が少し速くなった。
受けるか迷っているうちに、
表示が消えそうになった。
慌てて受諾を押した。
初めての注文だった。
店に着いても何をすればいいか分からなかった
地図を見ながら店へ向かった。
知っている場所なのに、
配達する側になると景色が違って見えた。
店の前に自転車を止める。
バッグを背負う。
中へ入る。
店員に何と声をかければいいのか分からない。
スマホの画面を見せながら、
小さな声で注文番号を伝えた。
店員は慣れていた。
商品を渡し、
「お願いします」と言った。
緊張していたのは自分だけだった。
商品をバッグに入れる。
ファスナーを閉める。
届け先の住所を確認した。
知らないマンションだった。
地図どおりに進んでも着かなかった
スマホの地図を見ながら走る。
右へ曲がる。
まっすぐ進む。
細い道へ入る。
到着したはずなのに、
指定された建物が見つからない。
同じようなアパートが並んでいる。
部屋番号も見えない。
自転車を止め、
スマホと建物を何度も見比べた。
料理が冷める。
到着が遅れる。
低い評価を付けられるかもしれない。
そんなことばかり考えた。
結局、
建物は一本裏の道にあった。
入口を見つけ、
階段を上がる。
インターホンを押した。
「ありがとうございます」
ドアが開く。
商品を渡す。
相手は、
「ありがとうございます」
と言って受け取った。
それだけだった。
特別な会話はない。
感謝されて泣きそうになったわけでもない。
でも、
肩の力が抜けた。
アプリで配達完了を押す。
報酬が表示された。
大きな金額ではなかった。
工場で一時間残業した方が、
効率は良いかもしれない。
それでも、
その数字は少し特別に見えた。
会社からもらった給料ではない。
自分で注文を受け、
自分で店へ行き、
自分で届けて得た金だった。
給料以外から、
初めて収入が生まれた。
金額よりも、
その事実がうれしかった。
休日だけのつもりだった
最初は休日だけ走った。
昼に数件。
夕方までに終える。
無理はしなかった。
慣れてくると、
店での受け取り方も分かる。
建物の探し方も少しずつ覚える。
注文が多い場所。
鳴りやすい時間。
避けた方がいい道。
少しずつ、
配達にも工場とは違う経験が積み上がった。
月に一万円。
次の月はもう少し。
副業の収入が増えると、
欲も出てきた。
休日だけでなく、
工場が早く終わった日にも走れるのではないか。
そう思うようになった。
夜勤明け、アプリを開いた
その日は残業がなかった。
工場の門を出たのは、
深夜2時を少し過ぎた頃だった。
空気は冷たかった。
寮へ帰れば、
シャワーを浴びてすぐ眠れる。
明日も仕事がある。
それでも、
スマホを取り出した。
配達アプリを開く。
近くの店が表示されている。
まだ注文が動いていた。
疲れている。
足も重い。
でも、
一件だけならできると思った。
オンラインのボタンを押す。
少しして、
スマホが鳴った。
その瞬間から、
工場と寮を往復するだけだった生活に、
もう一つの道が増えた。
工場を出る。
バッグを背負う。
店へ向かう。
料理を受け取る。
誰かの家へ届ける。
そして深夜の街を、
一人で寮へ帰る。
何のために走っていたのか
借金を早く返したかった。
貯金を減らしたくなかった。
満了した後の生活費も作りたかった。
理由はいくつもあった。
でも、
配達を続けた一番の理由は、
別のところにあったと思う。
期間工として働いている間、
自分の収入は会社に決められていた。
働く時間。
残業時間。
給料日。
契約期間。
自分で選べることは少ない。
配達は違った。
アプリを開くか。
今日は休むか。
何時まで走るか。
全部、自分で決める。
小さな自由だった。
稼げる金額は大きくない。
それでも、
自分で決めて、
自分で動いた分だけ金になる。
その感覚が、
工場だけで働いていた自分には新しかった。
稼ぐほど、時間は減った
最初は一件だけだった。
一件終えると、
また注文が入る。
もう一件だけ。
次を終える。
今度は少し単価が高い。
これを最後にしよう。
気づけば、
一時間のつもりが二時間になっていた。
寮へ戻る頃には、
深夜3時を過ぎている。
そこからシャワーを浴びる。
食事をする。
眠る時間は遅くなる。
収入は増えた。
その代わりに、
睡眠時間が減っていった。
当時の自分は、
金が増えることばかり見ていた。
体力と時間を、
一緒に使っていることには気づいていなかった。
深夜2時の帰り道
最後の配達を終える。
アプリをオフラインにする。
バッグの中は空だった。
街も静かだった。
信号だけが、
誰もいない交差点で色を変えていた。
コンビニに寄り、
温かいコーヒーを買う。
駐車場で今日の報酬を見る。
大金ではない。
それでも、
期間工の給料日を待つだけだった頃より、
少し前へ進んだ気がした。
寮へ向かう。
明日も工場がある。
この働き方を、
いつまで続けられるかは分からなかった。
ただ一つ、
分かったことがある。
100万円を貯めても、
人生は変わらなかった。
でも、
給料以外の一円を自分で作った時、
何かが少し動き始めた。
それはまだ、
人生を変えるほど大きな金額ではない。
ただ、
このままで終わりたくないと思っていた自分にとっては、
小さくても確かな一歩だった。